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最新エントリ
2011/04/22
カテゴリ: オヤジのつぶやき : 

執筆者: kureharo (10:28 am)
 上野上等兵の母

 昭和13年9月20日、東京第3陸軍病院を退院し、大阪都島の両親のもとへ帰り、ひとまず落ち着いた。

 そして一息入れる間もなく〜郷里の新居浜の親戚へ挨拶回りをした足で、松山市の連隊本部へ帰還報告に立ち寄り、羅店鎮で戦死した上野上等兵の遺族の住所を確認した。
 …かねて母子家庭であると聞いていたので〜気がかりだったのである。

 もともと上野上等兵は広島で生活していた。
…が、父が愛媛県出身だったので、上野上等兵の兵籍は、彼の本籍地松山市にあり、松山連隊に入隊したのである。

 上野の父は、彼が幼少の頃に病死し〜以来、母が一人で育て上げたのである。
母の住所は「広島県佐伯郡水内村」であった。

 高浜港から広島湾に渡り調べたところ… 広島市から約2時間かかる中国山地の山奥で、島根県との県境に近い山村であるとわかった。
広島市から西へ約1時間バスに乗り〜次のバスに乗り換えた。
水内村行きのバスは、一日2往復だけという…。

 だが、幸いに午後の便がまもなく来た。
谷間の狭い道を山奥に進み、約1時間で水内村に着いた。
小さな寒村である…。

 上野の家を聞きに入った家が、偶然村長宅であった。
ちょうど居合わせた村長さんに来意を告げると、気軽に先に立って案内して下さった。

 見るからに貧しい藁ぶきの家である。
中から60歳余りと見える老婆が出て来た。
実際の年より老けて腰の曲がった〜一目でそれとわかる老母である…。


                                つづく
2011/04/15
カテゴリ: オヤジのつぶやき : 

執筆者: kureharo (11:10 am)
 退院当日には、在京の従兄に迎えに来てもらって、小田急で東京に出た。
銀座のデパートで、従兄がガソリンライターを買ってくれた。
「お前は、煙草が好きだからこれがよいだろう。」との思いやりのプレゼントであった。
当時はライターは貴重品であったので、永く愛用した。

 次兄の会社の上司で〜慰問して下さった方のお宅へお礼回りを済ませた。
その夕方〜従兄の家族全員で退院祝いの会食をしてくれ、東京駅まで見送られて、夜行列車で帰阪した。

 在院中に親切に慰問下された方々には、大阪の自宅からお礼状を差し上げ、心ばかりの記念品を贈った。

 頻繁に病院へ慰問に来ていただいた方々のご芳志は、身に余るものであったが… これとても戦傷兵として寄せられた御厚意であり、退院して一地方人となった後は、皆さまにご迷惑がかからぬように心がけた。
しかしながら〜その時のご恩は、終生忘れられない…。

 退院した翌年の昭和14年7月…父(当時63歳)と弟、妹らとともに 富士山へ日帰り登山(当時はふもとから全徒歩であった)をするほど〜体力は完全に回復した。

           *      *      *

 以上が、昭和12年に入隊し、その直後 動員令を受けて中支に出征以後〜昭和13年9月に陸軍病院を退院するまで、1年2カ月間の思い出の記録である。

 何分にも50余年経過したので、月日、地名、その他に曖昧(あいまい)な点や誤りもあるかもしれぬ。
 また、戦況についても、一下士官の見た局部的な断片にすぎない…。
さらに、国家意識や皇室に対する国民感情等、現代とは相当の隔たりがあると思うが… 自分に忠実に記した。

 入院中に陸軍軍曹に任ぜられ、昭和15年4月29日付で「勲7等青色桐葉章」を授与された。


    * 一応これにて「完」ですが、このあと続編に続きます。福田                                     
2011/04/08
カテゴリ: オヤジのつぶやき : 

執筆者: kureharo (2:46 pm)
 東京第三陸軍病院より退院

 昭和13年5月某日…
義肢の型合わせも終わり、相模原の東京第三陸軍病院へ転院した。
ここは、退院に備えて〜体力増強と患部のリハビリが主な目的だ。
自分の場合は、断端の筋肉と骨が癒着したのを剥離するためのマッサージが主である。
 悲鳴を上げるほど痛いが、癒着したままでは切断した残存部分が 動かなくなるのである。

 やがて健康もほとんど回復し…味気ない生活にも飽きて、退院命令を待ち望んでいた8月中旬のある日…突然高熱に襲われた!
診断を受けたら、病名は「マラリア」であった。

 一日おきに一定の時刻になると猛烈な震えが起き、それから30分ほどたつと急激に熱が上がり〜41度5分ほどまでにもなる…
2時間くらい毛布にくるまって発刊すると、うそのように熱が下がる。
この発作が、2週間くらい続いた。

 「マラリア」には、退院後も3年間くらい悩まされた。
当時は、マラリアの特効薬は「塩酸キニーネ」しかなく、この薬は胃を害し、連続服用すると〜食欲は減退し、顔面が青黒くなる。

 思えば…
自分が負傷する前日の発熱も〜マラリアであったかもしれない。
それが負傷のショックで一時的に治まったものか、第三病院で新しく感染したものか、今もって分からない…。

 「マラリア」は蚊の媒介によるもので、明治〜大正時代に流行して「オコリ」と呼んで恐れられたという。

 「マラリア」騒ぎで遅れた退院が、9月20日と決定した。
松山から出陣して ちょうど1年1カ月、同じ20日というのも なにか因縁がありそうだ…。


                               つづく
2011/03/25
カテゴリ: オヤジのつぶやき : 

執筆者: kureharo (11:22 am)
 もうひとつ、皇室に関する痛快な思い出がある…

 ある日、夕食後の事、若い娘さんと中年の上品な二人の婦人が我々の部屋に来られ〜「何かお手伝いする事があれば 言ってください。」と、親切に言って下さった。

 ふつう慰問奉仕の方は夕食前に帰られるので、少し様子が違うが〜なんにしてもありがたい♪
患者たちは、下着類の洗濯や花瓶の水の取り換え〜中には寝台の下の掃除に至るまで、思いつくままに頼んでいる。

 ちょうど…3人のご婦人が、室外へ出られた後へ 衛生兵があわてて飛んできて「今この部屋へ、コレコレのご婦人が来られなかったか?」と聞く。
患者の一人が「その人たちには、用事を頼んでやってもらっている。」と答えると…
 衛生兵が言うには「お若いお嬢様は、朝香の宮家の第一王女さまで、他のお二方はお付きの方々である。お忍びでご奉仕に来られたのだから、不敬にあたることのないように!」と、くれぐれも注意して退室した。

 間もなく、3婦人が用を終えて部屋に戻ってこられたが、患者たちは身分を聞いてしまったので何も言えない…

 ついさっきまで「おい、ネエチャン」と呼んでいた奴らも、固くなって下を向いたり、横を向いたり…
急に態度が変わったので、3人の方々も事情を察しられたらしく〜
「どうぞ お大事に…」と、丁寧に一礼して帰って行かれた。

          *     *     *

 その後、昭和13年12月の陸軍記念日に、恒例の「大観兵式」の折〜
我々傷病兵もこの年に限り、拝観を許され特別席へ行った。

 白馬「白雪号」にまたがった天皇陛下が、30mばかりの至近距離を通過され…身の引き締まる思いで拝観でき、寒風の中も忘れて立ち尽くした。


                                つづく


 
2011/03/19
カテゴリ: オヤジのつぶやき : 

執筆者: kureharo (11:08 am)
 また、日時は前後するが、東一入院中のこと…
皇后陛下が陸軍病院へ、初めてお越しになられた時のことで、入院して後1ヶ月頃と覚える。

 皇后陛下御臨幸の日は〜衣類、寝具一式 新品と取り換えた。
また朝食後より数回リハーサルが行われ、「予定時刻の3時間前からは寝台から離れてならぬ!」と命じられ〜すなわちトイレにも行けない。。
 さらに「病室の入り口で陛下がお立ちになる直前に、45度の最敬礼を行い〜御退出後まで頭を起こしてはならぬ!」との厳重なお達しであった。

 そしていよいよ本番となった…
院長の先導で〜陛下がお近づきになる気配…
そして、病室の入口にお立ちになられた瞬間!
自分は遅れたふりをして、陛下のお顔を拝見したのち〜他の者より一瞬遅れて最敬礼をした。(もちろん一目 拝んでみたかったのである。)

 … あとで聞くと、誰一人として陛下の御顔を拝めた者はいなかったようである。なんともいえず痛快でならない♪

 当時としては、皇后陛下が親しくお見舞いに行啓されることなど 破格の思し召しであり、光栄の至りであったが、一面では窮屈な思い出であった。


                                つづく
2011/03/11
カテゴリ: オヤジのつぶやき : 

執筆者: kureharo (3:32 pm)
 「東一(東京第一陸軍病院)」在院中に最も感激したことがある。

 それは北白川宮家と竹田宮家が合同で、自分達「四肢切断患者」を御殿にご招待くださったことである。

 両宮家の御殿は、芝高輪の高台に隣り合ってあり、広いお庭は低い竹垣で仕切ってあり、双方自由に行き来が出来るのだ。

 昭和12年11月のある晴れた日に、上肢切断患者と下肢切断患者が20数名づつ選ばれて〜新しい白衣を着て宮家へ招かれた。
我々は、北白川家のご門から入場したのである。
そこには、恐れ多くも両宮家の妃殿下方が お揃いでお迎え下さった。

 そのあと…椅子席の広間で「旭堂南陵」の演ずる講談を一席聞かせていただき、そのあとは広いお庭に設けられた屋台店で園遊会形式の「すし」「おでんん」「そば」などを自由にご馳走になった。
 また休憩用の机や椅子がところどころに設けられ「ご紋章入りのタバコ」も自由にいただいた。
… 時間の経つのも忘れて、楽しい一日を過ごした。

 夕方に両宮殿下が 陸軍省からご帰邸された。
我ら一同が整列したところで、両宮殿下から「慰労のお言葉」があった。
当時お二人は「騎兵大尉と砲兵大尉」であったと記憶するが、定かでない…

 退出の際には、北白川宮大妃殿下より、御殿上において 一人一人に慰問袋をお手渡しになり…「どうか大切になさって、早くよくなって下さい。」と温かいお言葉をかけていただき感激した。

 当時は、現今と異なり、我々平民が宮様の行くことなど到底かなわず〜ましてや直々にお言葉をいただくことなど思いも寄らぬことであった。

 慰問袋には、ご紋章いりのタバコ、御紋菓子、その他心のこもった品々が入れてあり、同室の者にも分けてやった。
それからずっと…袋は大切に保管していたが、後の大阪の空襲で焼失し〜残念でならない…

 たとえ時代は移り変わっても、この日の感激は一生忘れられない。


                               つづく
2011/03/02
カテゴリ: オヤジのつぶやき : 

執筆者: kureharo (4:47 pm)
 東京陸軍病院

 東京駅から〜日赤のバスに乗せられて、一路 牛込の「東京第一陸軍病院」〜通称「東一」へ到着した。

 意外にも、軍医少将院長閣下が 親しく正面玄関に我々患者を出迎えていただいた。これは全く異例のことであり感激した…。

 病室は第5外科3階にあり、正門を眼下に眺める部屋で、腕と脚の切断患者を交互に15〜16名収容された。
これはおそらく〜お互いの不自由を補い合うようにとの配慮であろうと思われた。

 東一には、各宮家、知名人、芸能人などが相次いで慰問に来られ、応接にいとまがないくらいであった。
親戚、友人、知人などはもちろんで、室内は終日騒然とし〜落ち着かない日が続いた。

 しかし、患者は皆 傷が癒着した者ばかりで、主としてリハビリと義肢製作の為だから、部屋の空気はすこぶる明るい。

 自分は、退屈しのぎとリハビリを兼ねて「絽刺」(ろざし…刺繍)を始めた。次第に熟練すると面白くなり〜熱中した。
 …ある日、朝日新聞社が片手で刺繍をするのは珍しいと、写真入りの大きな記事を新聞に掲載した。
これを見た浅草の袋物問屋「中村屋」のご主人が、番頭さんを伴い 面会に来られた。

 当時「中村屋」は浅草の老舗で有名店である。
そのご主人から…
「あなたの刺した絽刺は、全部私の店で仕立てましょう!」と言われて驚いた。すなわち絽刺を仕立てるとは…刺繍の裏に皮や絹等を仕立てあげ、財布やハンドバッグなどに仕上げることをいう。

 その後は番頭さんが、休日ごとに3人の女店員を同行して、慰問を兼ね品を引き取りに来られ…(それは東一を退院するまで続けていただいた)ずいぶんお世話になったものである。


                                つづく
2011/02/25
カテゴリ: オヤジのつぶやき : 

執筆者: kureharo (10:37 am)
 大阪から京都までは、深夜のこととて途中停車せずに走った。
しかし、京都駅には、東西両本願寺の幟(のぼり)を始め、いくつかの団体が迎えて下さり(眠いながらも…)恐縮した。

 京都駅から先は〜深夜とて停車もせず、慰問団もなく ようやく静かになり、安心と疲れで熟睡できた。
目を覚ましたのは〜静岡を過ぎていたと思う…。
こうして、翌日の午後3時頃 東京駅に着いた。

 この当時は、日中事変の開戦後 日も浅く、連戦連勝で、戦線は南京城を目指して快進撃を続けていた。
国内では、全国に「召集令状」が飛び交い、熱狂的な「軍国主義」が高揚していた時代である。
こうした社会事情があったため、我々傷病兵は、「名誉の負傷者」いわば「ちょっとした軍神扱い」を受けたものと思う。

 東京陸軍病院入院中も、白衣を着て往来を歩くと、行き交う人は頭を下げてくれ、小学生は脱帽して最敬礼をしてくれたりと…ずいぶん面映ゆい思いをしたものである。

 太平洋戦争末期の事情とは まったく違う、ありがたい待遇を受け、大事にされたのである。


                                つづく
2011/02/19
カテゴリ: オヤジのつぶやき : 

執筆者: kureharo (10:23 am)
 東京陸軍病院へ転送

 昭和12年10月末も近い某日…
四肢切断患者は、東京へ転院が決まり、広島から臨時列車に乗った。
 広島駅には、各種団体がホームいっぱいに詰めかけ〜盛大な見送りをしていただいた。

 また、婦人会の会員4〜5人が各車両に乗り込み、茶菓の接待や雑用奉仕をして下され、次の駅で交代して〜また次の駅まで…という具合に奉仕の引き継ぎをしていただいた。
嬉しいのだが、各駅停車なので、大変混雑した…。

 さらに…婦人会の方々が「切り花」を持ち込み、網棚と言わず手すりと言わず差し込まれるので、むせかえるような花の香りに かえって辟易(へきえき)してしまった。

 こんな奉仕が延々と続き、ありがたいのだが〜ぐったり疲れてしまった。
そうこうするうちに大阪駅が次第に近づいて来る…。


 大阪駅には、祖母や両親、親戚の面々が 面会に来ていると聞いていたので〜自分の変わり果てた姿を見て どんな表情をするかと思うと、不安がつのり落ち着かない。
 列車は夜の11時半頃、予定通り大阪駅のホームに滑り込んだ。

 広いホームには例によって各種団体の他、面会の人々で埋まり〜果たして家族が見つかるかと不安になった。
しかし幸いにも、自分の乗った車両に比較的近い所に家族の姿を見つけ出すことができ安心した…。
しかし、もちろん下車する事は許されない。。

 窓から身を乗り出して、双方〜大声で話そうとするのだが、群衆の騒音にかき消されて ほとんど何も聞き取れない。
ただ〜母が自分の左腕にすがり、大粒の涙を流している。
その姿を見ると、自分もそれまでこらえていた涙が、思わずこぼれてしまった…。

 停車時間の20分はあっという間に過ぎ去り、汽車は漆黒の闇を 京都に向かって走りだした。


                                つづく
2011/02/09
カテゴリ: オヤジのつぶやき : 

執筆者: kureharo (5:00 pm)
 夕食後に、屋外に散歩に出かけた。
病院の周囲の柵は、製材の切れ端ばかりで作ってあるので、あちこち隙間だらけで、節穴も無数にある。
秋の夕暮れ時でもあり、物見高い市民が大勢寄って来て、柵の中を覗き…
「兵隊さん、兵隊さん!」と呼びかけてくる。

 そばに行くと…
「広島に親戚や知人があれば 連絡してあげますよ。」
また、「どこで怪我したんですか?」とか「買い物や、食べたい物はありませんか?」など、いろいろ親切に聞いてくれた。
中には、患者の名前を聞く人も沢山いた。

 翌日には、朝食後から見舞いの面会人が大勢押し掛けた。
自分の所へも、とある中年のご婦人が「従姉(いとこ)」と称して面会に来たが〜顔も名前も知らない人である…。

 それでも話していると、昨夕、柵の所で話していた人だったが、こちらは見知らぬ方との立話だったから〜分からないはずだ…。
 戦争の話を聞きたくて、寿司や饅頭を持って来てくれた…との事であった。
 どうやら〜他の面会人も、そんな人が多かったようだ。

 こんな光景が夕食直前まで続いた。

 さて、広島に着くと、いち早く次兄に電報を打っておいたので、10月22日の朝早く〜大阪から 幼い姪を連れて面会に来てくれた。

 家では、自分の負傷は新聞に(重症)とだけ出ていたので、容態の詳しいことがわからず、皆がたいへん心配していたので、取りあえず様子を見に来たのである。

 兄の話では…父が「何となく〜右腕のような気がする…」と話していたとのことで、父の予感が的中したことに大変驚いた!

 また兄は、父母を伴って来ても、負傷の様子や衰弱した姿を見て 大きなショックを受けては困るので、自分だけ来たと言う…。

 後日、兄の述懐によると…
「出血多量のため 顔には血の気が無く、全身衰弱していたので、父母を同伴しなくてよかった。」と思ったそうである。
… 兄は、終日話をして帰っていった。

 また、四肢の切断患者は、東京の病院へ移送されると聞いていたので、その折に両親や親戚にも大阪駅で会う打合せをしておいた。
その後、1週間くらいに東京移送が実現した。


                               つづく

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